大熊の脚を北に
【執筆】たぴ岡
【作品形態】小説作品(2895文字)
【寄稿者メッセージ】
この度は素敵なWEBアンソロ企画を立ち上げて下さり、本当にありがとうございます。作品設定については、本編後のミクトランパ時空となっております。 カップリングらしい甘い描写は少ないですが、デイテス(固定)を前提として書いています。
ざくり、ざくり。しっかりと安定した足取りが、粗い礫石が無限に広がる傾斜を踏み締めて進む。
白紙化された汎人類史の大地ではなく、森林限界を超えた高山地帯の原風景。少し前までは山道を導くように彩っていた草花も、ずいぶんと疎らになった。清涼な気温と薄い空気に、肺が引き締まるような心地がする。
足取りはふたつあった。呼吸を整えながら粛々と先行するデイビットに対し、額に汗しながらも涼しい顔で後に続くテスカトリポカ。ふたりとも模範的な登山スタイルに身を包み、テスカトリポカのサングラスなどはわざわざ屋外スポーツ用のモデルに変わっている。背中には、テント泊のための大きな荷物を手分けして背負っている。
ここまで予定通りのルートを順調に登り切り、もうじき登頂を果たしつつあるところだ。場所は現実世界の山ではなく、楽園の中に再現されたものだが、メキシコ国内の高原地帯の山々をそのまま現したもののひとつである。
先ほど最後の休憩ポイントにて、この世の終わりと見紛うほどの赤々とした夕陽が、低くなった山脈に沈んでゆくのを見たところだ。時間切れは迫っている。が、ゴールまでの目測は充分だった。
「……着いたか」
「Hurra! 着いた着いた。いやぁ、お疲れさん」
歩くこと数分。無事にふたりは山頂に到着した。遮るもののないパノラマを遥かに見渡し、しばし達成感を噛み締める。
「日没には間に合わなかったが、悪くない眺めだな」
「ああ。これはこれで、希少な景観だ」
周囲の山並みは、既に影絵へと沈みつつある。しかし、折から快晴の空は、夕焼けの赤から黄昏の青へと素晴らしいグラデーションに彩られていた。
風景の楽しみは明日の朝へと持ち越して、一旦山頂を後にする。少し下ったところで、目を付けておいた平地にキャンプを構えることにした。
明るさが残っているうちにテントを設置し、火を熾す。青く染まった大気が闇に沈み、空に星が瞬き出す頃には、持参した携行食でのディナーを終えて、ふたりでゆったりと焚き火を囲んでいた。
山頂付近は開けており、冷え込みはあるものの、風は思いのほか少ない。時折静かにすり抜けてゆくだけの夜風に、キャンプ地の周囲を護られているかのようだ。火は安定して燃え続け、背後のテントは危なげなく佇んでいる。
「おまえとまた、焚き火を囲むことになるとはな」
温めたココアを折り畳みマグで飲みながら、デイビットは、火明かりに照らされた細い輪郭をおもむろに見やり、言った。
「やっぱりいいモンだろう? 見てると気分が落ち着く。何よりこれは、人間の営みの証でもある。ヒトの魂が自然と目指すように、戦いに疲れた戦士を癒せるように、オレが待つ標にはコイツを選んでる」
「確かに。地球上で、火を見て安堵するのはおよそ人類だけだ。拠り所には相応しいと言えるだろう」
ぱちり、ぱちり。ココアを早々に飲み終えたテスカトリポカは、手慣れた様子で、乾いた小枝を炎に投げ込んでいる。
夜も更けて、そろそろ薪も尽きてきた。自然と火が消える頃合いで就寝するのが善いだろう。明日は早朝からもう一度山頂に登り、日の出を見てから下山する計画だ。
揺らめく炎と相方の姿から視線を外し、デイビットは一転して、空を見上げた。
長く光源を見つめていた眼球が闇に慣れるには、しばし時間を要する。
それでも、歪な残像が視界から消える前に、夜空の姿はありありとその全貌を映し出してゆく。
「……見事だな」
思わずぽつりと、デイビットは呟いた。
月の無い夜だった。漆黒の空には文字通り、無数の星が瞬いていた。
周囲の峰々の大半より高い山頂の視界は、ほとんど天球全体に等しい。そこに映し出される夜空は、文明の光や大気の汚染に侵される前の時代のものである。
夥しい星屑が、音が聞こえてきそうなほどにきらきらと瞬いている。ミルキーウェイはまさに白い大河だ。星座は決してまばらな恒星を無理矢理に繋いだものではなく、間を埋める星々によっても形を成しているのだと知る。あらゆる地域の古代の人々が、天上に別世界が存在すると考えたことも頷ける。
「オレたちの世界では当たり前のように視えていたが、現代っ子には珍しい景色だったかねぇ」
「ああ。それに、ミクトランの星は周期を持たない仮想のものだった。あの異聞帯の霊長は暦を必要としなかったのだから、それもやむない。……だから、こうして天体観測をするのは、本当に久しぶりだよ」
何か、大切に守った記録のかけらを懐かしむかのように、青年は宙の色をした瞳を細めた。
デイビット・ゼム・ヴォイドは、宇宙の真の構造と距離感を識っている。地球上から見える天幕のスペクタクルは、未熟な知性体による錯覚に過ぎない。
けれども今は純粋に、いつかの5分間の奇跡のように、その光景を美しいと思った。
ふと、歌声が耳に響く。
“夜の風”が唄っている。
在りし日の王国の神官か、あるいは戦士が唄っていたものか。恐らくはもう歴史から喪われている詞《ことば》と音階を、朗々と、永遠に若き神の大きく開く唇と、張り出した喉が奏でている。
源流を辿れば、彼もまた自然現象から見出された神性でもある。こういった場所では殊更、機嫌がいいのかも知れない。
澄んだ虚空に溶け入ってゆく玲瓏とした声音に、鈴を振るような星々のさざめきが呼応しているかのようだった。
テスカトリポカの背後には、ちょうど北のあたりの空が広がっていた。極めて特徴的な七つ星の配置が、それを指し示している。
「あの星座はおまえだと聞くが、本当か?」
「あん?」
緩やかに歌を終えた男に、デイビットは何気なく尋ねた。
「あー、アレか。そういやそういうことになってるな」
テスカトリポカが首を捻って見上げた先には、西洋圏では『おおぐま座』と呼ばれる星座がかかっていた。
緯度の低い中南米では、空のかなり低い位置に見える。ギリシャ神話では海に入って休むことが許されないとされているが、こちらではむしろ潜りがちなようだ。グレゴリオ暦で言えば6月の終わりを反映した夜空には、星座全体がほぼ見える形でぶら下がっている。
尾の長い熊あらため、隻脚の神。そう思ってみれば、それらしくも視えてくる。
「つくづく何でも司っているな、おまえは」
そう言いつつデイビットは、一定の方角に注意深く視線を動かした。
1、2、3、4、5。
七つ並んだ柄杓の星の、ある部分を基点にすることで誰もが見つけることの出来る、天の標。
北極星の観測こそ、アフリカから北半球に旅立った人類にとっての運命であり、拠り所であったと言えよう。星見と呼ばれる者たちが、どこの地にでも生まれたように。
「だからこその全能神だ。これでも楽じゃないんだぜ? もうちっと敬えよオマエも」
「敬っているとも。ココアにマシュマロをおまけしてやった程度には」
軽やかな談笑とともに、山の夜は深まってゆく。天上の神の姿も、ゆっくりと大地に沈んでゆく。地下世界を通って、明日には再び空に甦るのだ。
星はめぐり、うたい、遥かな過去からの光によって、いつまでも続いていく時間《みらい》を語る。
End.